バイオ研究所の地下室。緊張した空気が漂う中、研究主任の山下は目の前の
データを何度も見直していた。
「被験体F-217の身長変化を確認。158.4cmから158.7cmへの成長を確認」
淡々とした声で読み上げる数値の裏で、山下の手は微かに震えていた。普通なら、成人女性の身長が変化するはずがない。それも、わずか1週間で。
「被験体F-219、159.1cmから159.5cm」
「被験体F-220、156.8cmから157.3cm」
次々と報告される異常な成長記録。すべて、女性被験者のみに現れる変化だった。
その夜遅く、研究所の換気システムに異常が発生したという記録が残された。しかし、それに気付いた時には既に遅かった。
目に見えない変化は、既に街へと溢れ出していた。
「はい、次!」
保健室から聞こえる校医の声に、明日香は重い足取りで身長計の前に立った。周りのクラスメイトたちの視線が痛い。
「佐藤明日香さん...」校医が記録を確認する。「うーん、前回と変わらず149.2センチですね」
明日香は小さくため息をつく。高校2年の後期なのに、まだ伸びる気配すらない。隣の列では男子の身体測定が行われていた。
「みさきさん、149.8センチ」
明日香の親友、河野みさきの測定が始まっていた。クラスで一番頭が良いとされる優等生だが、それでも定期テストは65点が限界だった。
「千春さん、148.5センチ」
続いて田中千春。運動部の部長を務めているのに、男子との合同練習では相手にもされない。バレー部のエースなのに、試合では男子の応援にまわることが多かった。
「亮太くん、168.5センチ。また2センチ伸びましたね」
校医の声が響く。バスケ部の亮太が誇らしげに胸を張る姿が見えた。
「さすが亮太!」
「もう誰も追いつけないぞ」
男子たちの歓声が上がる。明日香は思わず自分の腕を見つめた。細すぎる腕。42キロしかない体重。そして最近増えてきた肌の吹き出物。
「次は肺活量測定です」
校医の声に、明日香は暗い気持ちで測定器に向かった。
その日の朝、ニュースで研究所からの漏洩事故が報じられていた。しかし誰も、それが彼女たちの日常を大きく変えることになるとは想像もしていなかった。
測定器に向かう途中、明日香は保健室の窓から外を見た。グラウンドでは体育の授業が行われている。男子たちが軽々とハードルを飛び越えていく。平均点70の定期テスト。4300ccの肺活量。あらゆる面で、男子たちは上回っていた。
「早くして」
後ろから急かす声に、明日香は我に返る。そう、これが今の当たり前。でも―
何か、変わりそうな予感がした。まるで体の奥底で、小さな変化が始まっているような。だが、それはまだ誰にも気付かれない、ごくわずかな予感に過ぎなかった。
「次は視力検査です」
校医の声に、生徒たちは列を作り直す。明日香は自分の番を待ちながら、スマートフォンを取り出した。朝のニュースが気になっていた。
『バイオ研究所で未確認の物質が漏洩。周辺地域に影響なしと発表』
記事を読んでいると、みさきが横から覗き込んできた。
「なに見てるの?」
「ちょっとね...」
明日香が答えようとした時、視力検査の順番が来た。
「左目、0.5」
「右目も0.5ですね」
校医が記録する。隣では男子の列から歓声が上がっていた。
「さすが生徲会長!両目とも1.2!」
雄大が得意げに席に戻るのが見える。
「みんな、お昼休みはバスケやろうぜ」
亮太が声をかける。健一と雄大がすぐに賛同した。
「女子も誘ってやれよ」
雄大が冷ややかな目で女子たちの方を見る。
「まぁ、ハンデつけてあげればいいか」
千春が握りしめた拳を震わせているのが見えた。バレー部のエースなのに。
教室に戻る途中、明日香は腕の血管をじっと見つめた。なんだろう、この違和感。朝から何度も同じことを考えていた。体の中で、確かに何かが...。
「あ、お兄ちゃん!」
廊下で美咲とすれ違う。中学棟への移動時間らしい。
「おう。今日も頑張れよ」
亮太が妹の頭を軽く叩く。
「お前は男子みたいに強くなれよ」
その言葉を聞きながら、明日香は自分の体の違和感を思い出していた。今までとは何かが違う。でも、それが何なのかはまだ分からない。
保健室での身体測定。それは、彼女たちの日常が大きく変わり始める、その一歩手前の出来事だった。
昼休み、体育館にはバスケットボールの音が響いていた。
「おい、パス回しくらいはまともにしろよ」
雄大の声が体育館に響く。千春が投げたパスは、床を転がってしまっていた。
「ごめん...」
バレー部のエースとはいえ、この状況では申し訳なさそうに謝ることしかできない。
「まぁまぁ」
亮太が間に入る。
「せっかく混ぜてあげてるんだから、もうちょっと努力しろよ」
その言葉に、明日香は何か違和感を覚えた。「混ぜてあげてる」。その温情的な態度が、どこか...。
「あ...」
体が熱い。明日香は額の汗を拭った。普段より体が温かい。朝からの違和感は、少しずつ形を変えていた。
「明日香、大丈夫?」
みさきが心配そうに声をかけてくる。
「顔が赤いよ」
「うん、ちょっと...」
答えようとした時、体育館の扉が開いた。
「お兄ちゃん、お弁当忘れてた」
美咲が体育館に顔を出す。昼休みなのに、中学棟からわざわざ来たようだ。
「悪い、悪い」
亮太が妹に近寄る。その背中を見ながら、明日香はまた違和感を覚えた。今までは遠く感じた亮太の背中が、なぜか少し...近く見える?
「あれ?」
健一が明日香を見つめている。
「なんか、背が伸びた?」
「え?」
明日香は自分の体を見下ろした。確かに、体育館の床までの距離が、朝とは少し違う気がする。
「気のせいでしょ」
雄大が鼻で笑う。
「女子の身長なんて、もう止まってるはずだろ」
その言葉に、千春が小さく震えた。でも、明日香には分かる。自分の体の変化は、決して気のせいではない。
「あの...」
みさきが急に立ち止まる。
「私も、なんか体が熱い...」
体育館の中で、女子たちの体に確実な変化が始まっていた。まだ誰にも気付かれない、小さな...でも、確実な変化が。
「もういいや、男子だけでやろうぜ」
雄大の声が響く。
「女子なんて、やっぱり邪魔なだけだ」
その言葉を聞きながら、明日香は自分の拳を見つめた。血管が浮き出ている。そして確実に、力が漲っているのを感じる。
これは、始まりなのかもしれない。