翌朝。教室に入った明日香は、何か違和感を覚えていた。朝から体がだるい。昨日からの微熱は引いていないようだ。
「具合悪いの?」
後ろから声をかけてきたのはみさきだった。
「ううん、ちょっと体が重いだけ」
明日香は自分の制服の袖を無意識に掻んだ。少しかゆい。シャツの生地が肌に触れる感覚が、どこか違和感がある。
「私も」
みさきが小声で答える。
「昨日から、なんだか変。でも何が変なのかよく分からなくて」
「おはよー」
千春が教室に入ってきた。いつもより元気がない。
「なんか、寝つきが悪かったの。体が熱っぽくて」
「この前の中間テストの結果、見た?」
みさきが話題を変えた。先週返却された数学の答案を取り出す。赤ペンで書かれた「62点」の文字。クラスの女子の平均点は60点。それでも彼女は女子の中では上位だった。
「見たくもないわ」
千春は溜息をつく。彼女の点数は53点。運動は得意でも、勉強となるとこの程度が精一杯だった。
一方、男子たちの声が教室の前から聞こえてくる。
「やっぱり亮太すげーな。85点」
健一が答案を手に持っている。
「俺も80点取れたけど」
「ふん、そんなもんか」
雄大が鼻で笑う。彼の答案には92点と書かれていた。
「お前ら、どいてろよ」
教室の前を通り過ぎる亮太。明日香は自分の答案を見つめた。58点。いつもと変わらない点数。でも、今日は何かが違う気がする。
「今日のテスト、この前の補習でやったところから出るんだろ?」
健一が亮太に話しかけている。
明日香は教科書を開いた。文字を見つめながら、また違和感を覚える。いつもより、少しだけクリアに見える気がする。でも、それは気のせいかもしれない。
「なんか、今日は集中できそう」
みさきが呟く。
「頭が、ちょっとだけ冴えてる?」
チャイムが鳴り、数学の時間が始まった。
「では、テストを始めます」
配られた問題用紙を見て、明日香はいつもと同じように緊張した。でも、その緊張の中に、微かな違いを感じる。問題が、いつもより少しだけ...理解できるような。
「なんで、あいつらそんなに真剣なんだ?」
雄大が女子たちを見て呟く。確かに、みさきも千春も、いつもより集中して問題に取り組んでいる。
テスト終了のチャイムが鳴った。答案を提出する時、明日香は確信していた。今日のテストは、いつもとは違う。まだ点数には表れないかもしれない。でも、確実に何かが変わり始めている―そんな予感が。
「おい、見てみろよ」
放課後、教室に残っていた亮太が健一を呼び止めた。答案の束を手にした数学教師が職員室に向かうところだった。
「どうした?」
健一が窓際から歩み寄る。
「今日のテスト、なんかおかしくねぇ?」
亮太は黒板の方を顎でしゃくる。そこには今日のテストの平均点が書かれていた。
男子:73点
女子:62点
「別に、いつも通りじゃね?」
健一は首を傾げる。
「相変わらず10点以上差がついてるし」
「違う」
雄大が二人の会話に割り込んでくる。
「前回の女子の平均、たしか58点だったはずだ」
三人は黙り込んだ。確かに普段なら、女子の平均点が60点を超えることはめったにない。
「気のせいだろ」
亮太が肩をすくめる。でも、その声には僅かな不安が混じっていた。
「たまたまテストが簡単だっただけだ」
「でもさ」
健一が教室の後ろを見やる。明日香とみさきが片付けをしている。
「なんか、背が伸びてないか?」
「馬鹿言うな」
雄大が鼻で笑う。
「女子の身長なんて、もう止まってるはずだろ」
「そうだよな...」
亮太も同意を示す。でも、どこか心ここにあらずといった様子だった。
その時、廊下から声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、帰るの?」
美咲が教室を覗き込む。
「ああ」
亮太は妹の方に向かう。でも、その足取りは少し慌ただしい。まるで、教室に漂う違和感から逃げ出すかのように。
「亮太、今度の土曜、バスケやろうぜ」
健一が声をかける。
「女子は誘わなくていいよな?」
「ああ...」
亮太は曖昧に返事をする。それを見て、雄大は眉をひそめた。いつもなら「当たり前だろ」と即答するはずの親友が、ためらっている。
「なあ」
雄大が声を落として二人に近づく。
「明日から、女子の様子をよく見ておいた方がいいんじゃないか?」
「何言ってんだよ」
亮太は笑おうとする。でも、その笑顔は引きつっていた。
「俺たちが女子を警戒する必要なんて...」
その言葉は、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
教室の後ろでは、明日香が窓を閉めようとしている。その姿を見て、三人は息を呑んだ。確かに、昨日までとは何かが違う。でも、それが何なのか、誰にも分からない。
ただ、これまでの「当たり前」が、どこかでひび割れ始めている―そんな予感だけが、確かに教室の空気の中に漂っていた。
「えー、また身体測定?」
朝のHRで担任の突然の発表に、教室がざわめいた。
「先週のデータに不備があったそうです」
担任は平静を装っているように見えた。
「今日の3時限目に、もう一度測定を行います」
明日香は自分の手帳を開いた。先週の記録。
身長:149.2cm
体重:42kg
視力:0.5
肺活量:3200cc
「どうしたの?」
みさきが心配そうに声をかけてくる。
「なんか...」
明日香は制服の袖を引っ張った。この一週間で、少しずつきつくなってきている気がする。
「私も」
千春が振り向く。
「体操服が窮屈になってきてない?」
雄大が後ろの席で、いつもより真剣な面持ちでノートに何かを書き込んでいる。先週の男子の平均データだ。
身長:168.5cm
体重:55kg
視力:0.8
肺活量:4300cc
「気のせいだよな?」
亮太が健一に小声で話しかける。
「あいつら、なんか...」
「変わってきてる?」
健一の声も不安げだ。
3時限目。再び保健室に集まった生徒たち。
「じゃあ、番号順で」
校医の声が響く。生徒たちが列を作り始める。
明日香は自分の体に集中した。この一週間、確実に何かが変わっている。朝の微熱は続いている。体がだるい。でも、それは衰えているわけではない。むしろ...。
「佐藤明日香さん」
名前を呼ばれ、身長計に向かう。
「えっ」
校医が二度見する。
「151.8センチ...」
教室が静まり返った。
「先生、それ間違いじゃ...」
雄大が口を開きかける。
「次、河野みさきさん」
みさきが身長計に立つ。
「152.1センチ」
また、静寂が走る。
「田中千春さん」
「151.5センチ」
誰もが気付いていた変化が、ついに数字となって現れ始めた。
「これは...」
校医は困惑した表情で記録を見つめている。
「女子全員が、2センチから3センチ...」
「そんな馬鹿な」
雄大が立ち上がる。
「一週間で、そんなはず...」
でも、数字は嘘をつかない。
体重も増えていた。でも、それは脂肪ではない。明日香は自分の腕を触る。確実に、筋肉が付いている。
測定が続く中、誰もが気付いていた。これは始まりに過ぎないということに。変化は、まだまだ続いていく―。
「次は視力検査です」
校医の声に、生徒たちは列を作り直す。
「あの...」
明日香は黒板の文字を見つめた。
「これ、私、メガネなしで見えます」
校医は怪訝な表情を浮かべる。明日香はいつも0.5の視力で、一番前の席に座っていた生徒の一人だ。
「ではやってみましょう」
検査が始まる。
「左目...1.0」
校医の声が震える。
「右目も1.0です」
「私も見えます」
みさきが小声で呟く。
「黒板の文字が、クリアに」
続く検査で、女子全員の視力が改善していることが判明した。0.5前後だった視力が、ほぼ全員が1.0近くまで上昇している。
「次は肺活量測定」
男子たちの表情が険しくなる。先週の記録を覚えているからだ。
明日香が測定器に向かう。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「3800cc」
校医が記録を確認する。
「先週より600cc増加...」
「みさきさん、4000cc」
「千春さん、3900cc」
測定値が次々と記録される。先週は3200cc前後だった女子たちの肺活量が、軒並み3800cc以上に増加していた。
「くそっ」
雄大が壁を殴る。
「どうなってるんだよ」
亮太は黙って自分の腕を見つめている。まだ女子たちより体格は上だ。でも、その差は確実に縮まっている。
「骨密度の検査も行います」
新しい測定機器が運び込まれる。学校医は真剣な表情で結果を見つめる。
「女子の骨密度が...」
校医は言葉を詰まらせる。
「男子の平均値に近づいています」
保健室に重苦しい空気が流れる。データが示す現実は、もはや誰も否定できない。
「基礎代謝も計測します」
最後の測定項目。結果は同じだった。女子たちの数値が、着実に男子の水準に近づいている。
「これ、どうなってるの?」
健一が亮太に問いかける。返事はない。
明日香は窓の外を見つめていた。体の中で、まだ変化は続いている。そして、これは始まりに過ぎないという確信があった。